補足 地域別総人口データ (続き)

2. ヨーロッパ
 ヨーロッパの総人口に関する人口データは、古代ローマに行われたセンサス、中世に散発的に行われた人口調査、近代のセンサスに大別することができる。
 古代ローマのセンサスは、ローマ第六番目の王であるセルビウス・トゥリウス(在位紀元前578-535年)により宗教儀式に必要な経費を徴収するために始められたとされている。その後制度として確立され、紀元前435年にはセンサス局のセンサス官により執り行われるようになったが、それまでの間に10回ほどのセンサスが行われた。そのうち、結果が今に残るのは紀元前457年のセンサスで、ローマの歴史家Livyによりローマ市民数117,319人と記録されている。
 紀元前435年からは、制度として5年ごとに行われるように意図されたが、実際は戦争、反乱、その他の事情により正確に5年に一度というわけにはいかなかった。紀元前443-318年の125年間には15回、つまり平均8.3年に1回、紀元前318-86年の232年間には41回、つまり当初の計画に近い5.6年に1回という間隔で行われている。それらの内、結果の記録が残るのは、紀元前193年の143,704人、紀元前188年の258,308人で、いずれもローマ市民の数としてLivyにより記されている。
 市民の数と同時に出生、死亡、及び成人式という人口動態の記録も登録されているが、分析に値するものであるかどうかは疑問視されている(Alterman1969)。
 紀元前86年以降は、センサスは不定期に行われるようになり、共和制最後のセンサスは紀元前69年に行われた。その後41年間にわたるセンサスの空白の後で、初代皇帝アウグストゥスは紀元前28年にセンサスを復活させ、その後紀元前8年、紀元14年と、在位中合計3回センサスを行った。
 アウグストゥス以降は、紀元48年にクラウディウスが、72年にウェスパシアヌスが行い、その後は行われなくなった。紀元48年のセンサス結果は、ローマの歴史家Tacitusにより市民5,984,072人と記録されている。
 以上のように、古代ローマでは数多くのセンサスが行われたが、その結果はあくまでも秘密とされたゆえに文書として残らず、歴史家が部分的に述べた結果のみが残る、という状況である(補足-表7)。またセンサスは「市民」を対象としたとされているが、どこまでを市民とするか、またそれでは市民以外はどのくらいであったのかなど、総人口を推計するには多くの条件設定が必要である。さらに、ローマのセンサスは、徴税や徴兵が目的であったため、調査漏れもかなりあったとされている。

補足-表7 ローマ共和国・帝国におけるセンサス結果

出典 : Brunt (1971)

 いずれにせよ、これらの歴史書に記録されている人口値はあくまでもイタリア半島のものであり、ローマ帝国という地中海全域に広がる人口に関しては、センサスの合計値という形で記録は残っていない。ローマ帝国の属州(Provincia)でもローマの統治が広がるにつれてセンサスが行われた(Beloch 1886)とされているものの、実際に存在が確認されているのはエジプトのパピルスに記されたセンサス個票であり、エジプトではローマ支配とは別に古くからセンサスが続けられていたことを考えると、そのローマ時代のセンサスが、ローマ帝国の統治の結果行われた、というわけではないだろう。
 ローマ帝国全域にわたる人口推計値としてはBeloch(1886)の推計が有名であり、多くの学者に引用されているが、この推計のヨーロッパ以外、つまりアジア(トルコ、シリア等)、アフリカ(エジプト、リビア、マグレブ等)は、歴史書に現れる兵士数などを参照してはいるものの、推計自体はあり得そうな人口密度を面積にかけて求めたものである。

補足-表8 ローマ帝国の人口 (紀元14年)

出典 : Beloch (1886)

 また、Belochはこの1886年の著作(Die Bevölkerung der Griechisch-Römischen Welt)の中で、ギリシャ・ローマ帝国の頃の中国人口についても述べており、例えば紀元2年の数字についてみれば、12,233,062戸、59,594,978人と、漢書地理志の数字を1の位まで間違いなく記している。上表の紀元14年ローマ帝国人口合計値は5400万人となっており、その値と紀元2年の中国人口値が近似している。Belochのヨーロッパ以外のローマ帝国人口数は、人口記録といった根拠に基づいて計算されてはいないことから、同時代の中国人口値に呼応させる形でBelochがローマ帝国人口値を設定したと考えられなくもない。したがって、このBelochのローマ帝国人口推計値は、「根拠」ではなく、あくまでも「推計」にすぎない、という認識が必要である。
 中世の人口データとしては、イングランドで行われたドームズデイ・ブックDomesday Bookを挙げることができる。これは、ウィリアム一世(ウィリアム征服王: 1027-1087)が1086年にイングランドで行った人口・土地調査の台帳であり、自分が征服した土地、家畜の価値を知ることにより、適切な徴税を行うことが重要な目的であった。Domesdayというのは、現在で言うDoomsday、つまり「最後の審判の日」の中世における綴りであり、これが最終的な調査である、という意味で12世紀に名づけられたという。
 この調査は、イギリスの中でもイングランドのみで、スコットランド、アイルランド、ウェールズは調査対象外である。また、聖職者人口も除かれている。Russell(1948)は、それらを推計し、以下のように結果をまとめている(補足-表9)。

補足-表9 1086年のイギリス人口推計


出典 : Russell(1948)

 この調査を行ったウィリアム一世は、フランス・ノルマンディー地方の領主でもあり、フランス人であったが、なぜこのような調査をしようと思い立ったかはあまり知られていない。そのころのフランスでは、修道院記録(Polyptyque)に人口に関する記述があった程度であり、恒常的な人口調査が行われていたわけでもなく、大陸の制度を応用した、というものでもなかった。このウィリアム一世の人口土地調査の後、イングランド全土を対象とした調査は1377年の人頭税に関わる記録までなく、地域的にも、時代的にも、突然行われた人口調査という意味で、興味深いものがある。
 フランスにおける中世最初の人口調査としては、786年にシャルルマーニュ(カール大帝)が12歳以上のすべての人口を数えるように命令を下したこと(Hecht1977)にさかのぼる。上述した修道院記録とは、パリのサンジェルマンデプレ修道院等に残されたもので、領地内の人口について記録を残しているがあくまでも狭い範囲の記録にとどまっている。より広い範囲での人口記録は1328年のかまど税の徴収を目的とした戸数調査の記録まで待たねばならない。これは、かまど、つまり世帯数についての情報しか与えず、すべてのその当時のフランス領に対するデータがあるわけではない、またパリ市の値は不正確である、といった点は指摘されているが、それをもとに、当時のフランス領の人口は1500万人、現在のフランス領にすると1900万人程度であったと推計されている(Reinhard1968)。
 その他ヨーロッパにおける1500年以前の人口データとしては、ポーランドのPeter’s Penseというカトリック教会特有の税金の記録、14世紀からのスイスの徴税記録、スペイン・カタルニア地方の1281-5年のかまど税の記録等がある。
 1538年にトーマス・クロムウェルが、キリスト教会における洗礼、結婚、埋葬の記録を義務付け、その後大陸にも広まっていく。特にイングランドの人口は、入手可能な教区簿冊の記録を用いて1541年からの総人口が推計されているが、これは全10,000教区のうちの404教区(Wrigley and Schofield 1981)、もしくは1801年のセンサスによる総人口の0.66%にあたる56,857人(Wrigley et al.1997 )のデータをもとにしたものである(補足-表10)。

補足-表10 教区簿冊データから推計されたイングランド総人口(1541~1871年)

 ヨーロッパにおけるセンサス開始年を確認すると、補足-表11の通りで、一番早いのは1703年のアイスランド 、その後スウェーデン(1751年)、デンマーク、ノルウェー(1769年)と北欧諸国が続き、フランス、イギリス (1801年)を皮切りに、19世紀に多くの国がセンサスを始めている。ロシアの第一回センサスは1897年に行われ、旧ソビエト圏の国々の人口データも、そこから得ることができる。

補足-表11 ヨーロッパにおける人口センサス開始年


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